昭和52年02月25日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 大変難しい御理解です。信心は見易うするがよい。そう言う所から難しゅうしてはならんと、例えば仰りながら、十年と信心が続いたら、吾れとわが心を奉れと仰る。大変そこに矛盾を感じますですね。果してそんな見易い信心でわが心が奉れれるようなおかげが受けられるだろうか。我れとわが心が拝めるようになれるだろうかと。なれないそこに御教えのいうならば、深さを感じます。とても私達ぐらい信心ではでけん、と信心のない人達は申します。特にお道の信心は、もう朝参りからと言われております。
 昨日泉尾の三宅先生のお書きになったものを読ませて頂いておりましたら、もうお道の信心に朝参りはもう絶対のものだと言われておりますですね。ですからその、信心の無い者が見たらそれだけでも、とてもそんなやつだん続かん、とても毎日毎日なら、御初穂やらもせんならんまいが、とても私だん続かんと、と言うわけですけれども、いわゆる、氏子から難しゅうするというのはそういう受け方をするから難しいのです。
 実際お参りをしておる人たちは、もうそれこそ有り難うして有難うして、もう勿体のうして勿体のうしてしかも嬉しゅう、しかも愉快にお参りができておられる。そしてならお供えでも、本当に神様がさせて下さるんだなあと思わせて頂ける様にちゃんとできておるという事実なんです。初めの間は難しいと思いよったが、難しいのじゃあない、もうそれが有難うなってくる。そこにです私は見易いと言う事はそう言う事だと思う。朝参りが有難うして有難うして、しかも愉快で楽しゅうて見易いでしょうが。
 見易いという事はそういう信心。そういう信心をさせてもらうから、なら十年と信心が続いたら、我ながらわが心を奉れれると言う様な、おかげが頂かれるのです。ただこれを一遍通り読んだだけで信心は見易いのだから、まあいうなら信心は見易うするがよいぞと、こう一番初めにも最後にも言っとられます。信心は見易うするがよいぞと。そしてなら中にはどう仰っておられるかというと、十年と信心が続いたら、我ながらわが心を奉れと仰っておられます。
 いきなりさんぱち奉れといったって奉れるもんじゃあない。奉れと言う事は自分で自分の心が拝めれる程しのものなんだ。どうもこれは矛盾が大きい感じが致しますね、そういう風に頂きますと。けれどもなら泉尾の先生が仰るように、お道の信心は朝参りからだと。そのなら朝参りをするときはもう本当にじゅつのうしてじゅつのうして、もうしるしゅうしてしるしゅうして、と言うて参って来ておる人たちも、それは初めの間はあるかもしれません。眠たい。
 そしてある意味においての欲もはなさなければならない。こりゃとても、金光様の信心ちゃあ普通の者じゃあでけんぞと。暇も無からなきゃでけん、金もなからにゃでけん。という風にでしょうけれども本当にです、例えばその本気で朝参りをしてみえてね、三日、四日、五日と続いてくる頃には、もうはあ信心ちゃあこげん有り難いもんだろうかという事は、その人の表情で分かります。
 もう私がここで初めての方たちがお参りをしてくるのを見ておると、もう四、五日、十日も参りよりますとですね、表情が変わるです。もうすでに心が有り難うなってる。有り難い心の喜びの芽が出ておる証拠です。その喜びの芽をです、惜しい事に踏みにじってしまう人もたくさんありますやはり。だから信心を見易いものと言う所まで極めていかなければ信心が、信心が見易いちゅう事ではない。
 私は思いますのに、何の稽古事でもですもう簡単に誰でん二、三日行きゃ覚えてしまうというごたる、例えば仕事であるとするならばね、もうこんなに味気の無い事はなかろうと思うですね。その仕事を本気で打ち込んで、その仕事を自分の物に本気でしようと思うて、勤めれば勤める程ですね、そのいうなら難しさに気が付いて、しかもその難しいと思うておったものが段々出来てきて、そこに例えばその仕事に対する生きがいと言った様なものまで生まれてくる。
 そしてそれをなら素人から見たら、いわゆる名人作とかね芸術品とか美術品とかと言う様な所まで高めて行く事ができるのです。楽器でもそうです。簡単にすぐ覚えるような楽器は絶対良か音は出やしません。昔の大正琴ちゅうのがありましたけれども、もう子供でもちゃんと譜があるからね、なんとかこう、歌が歌になります。けれども例えばなら、三味線なら三味線の稽古をすると言う事になるとそんなわけにはいきません。なかなか竹に椎でもちょっとじゃ務まりゃしません
 。第一調子が分からにゃでけん。初めの間は調子も何にも分かりません。段々五つ、六つ、七つとこう、段々難しいものをあげていく内に調子が分かってくる。調子が分かりだしたら、もう後は楽しゅうて楽しゅうて応えんのです。信心もそうです。信心もその調子が出てくる。調子が分かるようになるとです、まあそれをいうならば、今合楽で言われる天地のリズムが聞ける、天地と自分の心の調子が合うてくる。
 そこにはもういよいよ有り難いしかも楽しい、勿体ないと言う様な信心ができて初めて信心はこんなにも有り難いものと言う事は、こんなにも見易いものだと言う事が言えるのです。なるほどこれならば、十年と自分の信心が続いたらわが心が奉れれると言う事になるのです。だから結局信心です。信心は見易いものですけれども、おかげを頂くという、おかげを頂く、おかげ信心は難しいです。なぜって神様がそう安うおかげ下さるはずは無いからです。人間の欲と願いと。
 例えば借金で首が回らない、さあ何日か参ったら借金払いができてしもうたと、はあ神様のおかげちゃあたいしたこっちゃあるというようなです、事がいただけるはずがないでしょう。それこそ何とはなしにね、最後にここにありますね。その日その日が立ち行けばと仰る。どんなに借金があっても、何とはなしにお願いをさせて頂いていければおかげで断りもできない借金の断りもできた。おかげで利子だけは払うことができた。おかげで元利とも少しずつは払うようにおかげを頂いた。
 そしてそれが、例えば借金払いができる頃には信心のありがたさも分からせてもろうて、というわけでしょうが。かと言うてこれがならそのもういよいよぎりぎりという時、それは奇跡と言います。宮崎の甲斐さんじゃないけれども、どうにもできないぎりぎりもう銀行も借りるところは無か。それでもどうかという時には、ならどこどこ銀行に行きなさい。その銀行がいわば貸したです。そういう例えばというのはこりゃもう奇跡です。信心はなら、できんなりにおかげを受ける。
 今日は佐世保から四人連れですかね、参っておられます。昨日大和さんところの宅祭りですから参ろうとしておりましたら電話がかかってまいりました。一年半ぐらいの赤ちゃんが、今日あの聞かせていただきましたら6メートルの高さから落ちられたそうです。もう本当いうたら、もう即死しとらんのが不思議と言われたそうです。それで医者にすぐ連れて行かれて、またあの次に電話がかかった時には、今夜が瀬越ですからどうぞよろしゅうお願いしますちゅう電話がまたかかってきたです。
 その事御取次させて頂いたら、夕べ私は一時一時過ぎだったでしょうか、まだ起きとりました。そしたらあの栄四郎が入ってまいりますもん、部屋に。こりゃどげんかっちゅったら、今あの電話がかかってきた。おかげを頂いてその瀬越っち言われとったのが、おかげで助かるかもしれんというぐらいまでおかげを頂いた。それでそんなら、今からあの御礼参拝させてもらいたいから、どうぞそちらに三時ごろ着かせて頂くからという電話があったとこう言うのです。
 それで今朝なら三時ごろ着かれたのを私が三時半に出てきてここで、御取次させて頂いたんですけれども。神様にお願いさせて頂いておりましたらね、もうこんなに大きな目の荒い籠を頂くんですよ。それに例えば頂く事がね、大きなおかげはもれないと頂いた。そりゃもう、頂いてからですね、金光様の信心は素晴らしいと私は思うですもん。もう毎日毎日思いますけれど。
 日頃信心もできんどいてからそげんちょいと簡単にいくのじゃないって。それがもう命に関わるというのが大きなおかげであればあるほどにね、なら目が粗いわけです。けれども、そんかわり大きなおかげだから漏らんわけです。はあこりゃ助かるなと私は思いました。今日お母さんも一緒に参ってみえて、もうだた助けてくださいと、もう親の一念もうそれだけで参ってきてるんです。
 なら水も漏らさんごたる日頃信心をせにゃというのは日ごろの事であって、どんなになら目が粗かっても、大きなおかげは漏れんと神様は仰る。その問題は、なら神様が下さろう、また願う氏子が一心にすがると、これが一つにならなきゃいけません。信心とは見易いもんだ、神様どうぞそれで手を合わせる、もうそれがそのすでに信心なんです。だからそう言う事だけが、なら十年続いとって自分の心が拝めるようにはなりゃしません。なかなか難しい御理解です。
 初めと最後には見易う、氏子から難しゅうするとおおせられたり、最後には信心は見易うするがよいぞと仰った。そして中にはどう言う事を仰っておられるかというと、十年もしたら自分で自分の心が拝めれるようにもなれよとおっしゃる、そこに今日皆さんに聞いて頂いた信心の一つの過程と。信心が楽しゅうなる、有り難うなる。本当に朝参りが有り難うしてこたえん。
 もうこれが私の生きがいというほどしになったら、もうああ難しかろうという、例えば信心のない人達は言いましょうけれども、難しいだんじゃあない、ただ有り難うして有り難うしてという事になるのです。私は今日の御理解を改めて、大変矛盾を感ずる御理解ですけれども、なるほど深く頂いてまいりますと、決して矛盾ではない事が分かってまいります。そして本気でです。
 やはり信心を求めなければならないと言う事です。おかげはその後から付いてくるもの。信心を求めると言う事になりますとです、いうならば難しい例えば楽器に取り組んで、その楽器がだんだん上手に弾けるようになってきたら、はあ難しい難しいとは言わん、例えばそれこそ、なら芸者さんに三味線な難しかでしょ、それこそもう目くらででん弾く。その調子を覚えるまでが難しいと言やあ難しい。
 信心も同じ事。だからその信心の調子というのがね、おかげおかげという間はいつまでたっても調子が分かりません。おかげの味は分かります。けれども信心の味というのは、金光様のご信心はどこまでも天地との繋がり。いわゆる晃という字日と光ね、日と光の音律といわれるようにです、神様の奏でられるものと、私共が奏でる心の調子とがぴったり合うという事。
 これは信心をさせてもらう、いわゆる最近言われる合楽理念をマスターする、合楽理念の勉強をする、合楽理念に基づいての生き方になる、もう自ずと、それこそ妙なるまでの音律が心に響いてくるようになる。その音律にのっての生活を信心生活というのである。そういう生活が十年も続いたら、確かに我ながらわが心が奉れれるほどしのおかげが受けられることは間違いない。そういう信心を目指させていただきたいと思うですね。
   どうぞ。